カフェで読書に集中できるのは?
駅前のドトールが気に入っています。
スタバもいいけれど、ドトールも捨てたものではありません。
みんな勉強したり、会話をしたり、本を読んだり…
このあたりの知的活動にどれくらい貢献しているか。(笑)
よくいうホワイトノイズのおかげなんでしょうね。
私も昨日、空き時間に入って本を読みました。
こんな仕切りの前で。
私が本を読んでいた時は、向こう側に男女が座って話をしていました。
でも、間仕切りが不透明なので、その会話は無視できて
むしろ、いい感じの雑音になって、読書に集中できました。
どれくらいが向こう側を無視できるのかな?
きっと「無視できる」のと「見えない」のも違いますよね。
障子の向こうみたいになると逆に気になるかも。
きっとこういう研究、世の中にあるんじゃないかな。
ということでググってみると
カリフォルニア大学サンディエゴ校で、音によって視覚が向上するという研究がありました。視覚的信号と同じ方向に音による刺激があると信号をキャッチしやすいというもの。(Signal Detection Theoryという理論が言及されています。)
直観的にはそうだろうな、という感じがします。
じゃ、視覚的刺激があれば、音もキャッチしやすい?
ような気がします。
そんな研究もあるのかも…。
もしそうなら、会話の音があっても、
見えないという視覚的なブロックによって、
音に鈍感になるのかなと思うと面白いです。
きっと、その視覚的ブロックのレベルも計算されているんでしょう。
それとも、メーカーやコーヒーチェーンの経験として蓄えられてるのかな?
面白~い!
というわけで、間仕切りに感謝しつつ、
読書の秋を楽しもうっと。
「ちゃんと、きちんと、はやく」する方法を習う。
ちゃんとしなさい、
きちんとしなさい、
はやくしなさい。
子どものころよく言われました。
子どもにもついつい言っていました。
でも、親の自分もできていなくて失敗して落ち込みました。
忘れ物をして、遅れることは私のDNAに刻まれている!
と絶望しました。
が、
それがひょんなことから、「どうやって」遅れないようにして、
忘れないようにするのか、というHow toを読んでみようと思いました。
すると、沢山あるんですね!
そういう本。
多分、小さいころからしつけているひとにとっては当たり前のことばかりかも。
「夜寝る前に、翌朝持っていくバッグを用意する」とか。
でも、当たり前になっていない人もいます。
だから、できていない、と𠮟るより、
子どもにもHow toを教えればいいのにな。
学校で教えてもいいと思います。
親だって、どうしたらよいかというやり方を
人に示せるほど明確に分かっているとは限らないから。
そもそもちゃんと教えてもらったことないですものね。
きっと大事なのはそのとき、
そんなことも知らないのか、
とか、親の中にもそんなこともできない人がいるのか
とか下げずまないこと。
目的はできるようになること。
できないのを責めたり、軽蔑するのが目的ではありません。
算数を教えるのに「1+1も知らないの?!」と言いながら
教える先生はいません。(多分。)
責めても生徒の心に生まれるのは反感や自己嫌悪だけ。
自分が学ぶときだって「あ~あ、私は」なんて落ち込んでいたら
それこそ学ぶこと自体に集中できません。
教えてもらったことがないからできるわけない、というくらいでいいと思います。
さて、こうやって学ぶべきことは
時間に遅れない
整理整頓(片付けについては、近藤麻理恵さんも沢山の人が片づけなさいと言われるばかりでやり方を教えられていないからしかたないという趣旨のことをおっしゃっています。)
忘れない
コミュニケーションミスを避ける
などなど色々ありそうです。
延長線上には
スピーチなんかもありそうです。
がみがみ怒るより、How toを学んだか、How toを教えているか、
を考えるのがよさそうですね~。
スマートカッツ ― 子どもの教育をどうする?
「時間をかけずに成功する人 コツコツやっても伸びない人 SMARTCUTS」
という本を読みました。
賢い近道ってなんだろう?という話。
テーマは
「限りある時間をどう効果的に使って夢を実現するか」
で、今の時代に使える技術を使うなど、そのための方策が紹介されています。
事例としてフィンランドの教育システムが出てきます。
なんと九九暗記を放棄(!)して、代わり電卓を使わせ、
ものの考え方とか調べ方を教えることに時間をかけているようです。
今の日本で(というか著者の母国であるアメリカでも)
「九九をやめます」なんていったら大論争が起きそう。
本当に九九をやめるか、は私もまだ異論がありますが、
(覚えていると便利だから。)
そういう目で今の小学校のカリキュラムを考えてみると、
そこに時間をかけるのかという疑問が湧いてきます。
例えば小4の算数では、
3けた÷2けたの筆算
3けた×3けたの筆算
などを、少なくともここ数週間はかけています。
ん~、確かに仕組みをわかることは大事かもしれない。
しかし・・・大人になってこれを筆算ですること少ないですよね。
数週間かけるなら、他にできることある。
というか、他にしないといけないことがある。
住んでいる都道府県の市町村名をすべて書いてくるという夏休みの宿題もありました。
結構大変な数の市町村でしたが(^^;
何を教えたいのかな???
地理の調べ方を教えたいのか(ならば地形や歴史を一緒に教える)?
行き方を教えたいのか(ならば電車の路線を教える)?
リコーダー
結構長い間やっていますが、不得意な子供もいます。
リコーダーを習うこと自体は反対はしませんが、
問題はこれができないから音楽の点が下がったら
「私は音楽が不得意だった」と思い込んでしまうことだと思います。
リコーダーが不得意だったというだけ。
人生には影響ありません!
譜面が読めないから歌が歌えないという人もよくいますが、
これも違いますよね?
デシリットル
大人になって使いません!!
などなど、思いつくだけでもこれだけ挙げられます。
全部、どうしても必要なものではない。
あればいいけど、という内容です。
でも、限られた時間の中で子どもが社会に出る準備をしないといけない教育で、
そんな悠長なことを言っていてよいのでしょうか?
もちろん教育の見直しはされていないとはいいませんが、
まだまだ足らないと思います。
どういう能力を身に着けてほしくて、
そのために何をどう教えるのかを
もっともっと煮詰める必要があります。
それも頻繁に。
実はこういうことを象徴的に表すもの、
それは、ランドセルだと思います。
こういう絵をみると可愛いな~と思いますが、
実は…
重い。
大人は重いバッグを持たなくなりましたよね。
依頼主(親)と受け手(子ども)が違い、
しかも受け手は経験が限られているので
受け取ったものを無批判に受け取る、という象徴
と私は思っています。
そういう危険性をはらんでいるということを
私たち大人は肝に銘じて「教育」を見直しつづけるべきだと思います。
諦めて、受け入れて、認めて…そして工夫する。
自分を認める。
すごくうっかりやさんです。
うっかりやさんという可愛い響きでは伝わらない。
勘違い、時間に遅れる、計画実行がへた、忘れ物が多い。
それって注意不足じゃない?
やる気がたらないんじゃない?
と言われそうです。
いえ、自分でもそう思っていました。
そして毎回、自分をいじめてきました。
が、色々ありまして、
一生、生きてきて初めて新しい見方をすることにしました。
そういう脳なんだと。
諦める力、です。
でも、諦める、だからできることもあります。
今までは「努力しなきゃ」
→これからは
「どうしたら忘れないようにするか」
ないしは
「どうしたら忘れても実害がないようにするか」
こういう見方は諦める=事実を受け入れることで生まれます。
で、もって今色々模索中。
まずは前日にスケジュールを書き出して、自分の計画に漏れがないか確認する。
行先に応じて必要な物を書き出してみる。
私はスマホのタイマーを使っていますが、
それ専用のタイマーを買うのもいいな。
学校のように
家族それぞれの「時間割」を作って
今日はこれ、って貼っておくのもいいな。
とか。
要は実害がでないようにすればいいわけですから。
でも、諦めたって別に落ち込みません。
だって一方で人よりうまくできることもありますから。
バラの樹にユリを咲かせろ~といっても仕方ないのと一緒です。
バラにはバラの花が、ユリにはユリの花が一番美しく咲きます。
というか、バラにユリの花は咲かない、ですね。(笑)
そして、
バラはバラなりの、ユリはユリなりのお世話の仕方があります。
人間もそれと一緒。
夏の暑さのピークが過ぎて
久しぶりにピンクのバラが咲いています。
ローゼンドルフシュパリースホープ。
暑さのピークを過ぎたからスイッチが入ったのか、
枝の先に一斉に蕾がついて、今、5つくらい咲いています。(^^)
一方、夏のピーク中もなんのその。ずっと咲いていたのは、
ハイビスカス。
文字通り、毎日咲いていたから大したものです。
人間の方はと言えば、夏休み、暑さと遊びとオリンピックによる夜更かしが堪えたのか、家族は私も含めて、ちょっと体調が低め。
ま、ここらで季節が変わるのに備えて、準備中といったところです。
そんな中、8月中旬から断捨離進行中。
家の中のものを分類しまくっています。
仕事の合間なのでまだ60%くらい。
最後の最後に手ごわい「思い出の品」「写真」がありますが、
それ以外はなるべくサクッと終わらせてしまう予定です。
母の勉強^^
この頃、久しぶりに、本当に久しぶりに勉強で外に出かけるようになりました。
子どもと過ごす時間を考え、夜や日曜日でかけることを控えていたのですが、活動再開です。多分、子どもが成長するにつれ、子どもにとって「一緒にいる」ことだけでなく、私自身の成長も必要になる時期になってきたことと関係があるかな。
今、すごい勢いで新しいことを吸収しています。
行ってきたのは、
コミュニケーションやコーチングの勉強会
そして、バレエセラピストの方の座談会。
やっぱり外に出て、貪欲に知識を求めることは楽しいですね!
知れば知るほど、よかった~!これ知らなかったら危なかった~!
と思うばかりです。
そして、知識を仕入れるだけでなく、講師の方たちの考え方、ものの見方からも刺激を沢山受けて帰ってきます。
子どもの成長を見守るのですから、そういった講師の方たちが今までどうやって自分の道を切り開いてきたかはとても参考になります。
口でどれだけいうより、そういう刺激を受け、成長を止めない親でいることが子供にとって一番のメッセージになるかな。
質問はありませんか?しーん。^^; -私達はどうして質問しないか-その1
会議で通訳をしていると、
日本人と欧米人―それにアジア人もたいていは欧米人と近いですが―とで反応が違うなぁと思う場面がいつくかありますが、
その一つが質問の時間💦
講演者が話し終わって質問はありますか?と言うとき
日本人が聞き手だと、大きい会場であるほどしーんとします。
海外からの演者の多くはこれに弱い。
明らかにがっくりきます。
もちろん、多くの主催者や通訳は事前に質問が出にくいこと、
後で個別に質問をしに来る人が多いことを伝えます。
質疑応答になって、心が折れないように。^^;
でも、なんで質問が出にくかったり出ないのでしょう?
私は「権威」に対する考え方が違うんだろうなぁと思います。
日本では演者=権威。
でもって権威とは認めるか認めないか、100か0かの世界。
尊敬するなら丸飲み。ちょっとでも疑問を持ったらそれはたてつくことになる。
でもなぜそうなる?
私が思うに、日本人の聞き手は
権威ある人を前にすると自分より上だ、と、その人との関係を意識し、
そこに上下関係を当てはめていると思います。
だから「たてつく」という発想がでるんじゃないかな。
自分が権威ある人からどう見られるかを意識してしているし、
自分が権威ある人とどういう関係性を持つかを他の人(自分以外の聴衆)がどう見ているかを意識する。ヤヤコシー。
翻って欧米の場合は、そもそも自分とその人の関係はあまり意識されないのではないでしょうか。
権威のある人とは沢山の知識を持った人ということなので、
せっかくだから、もっと教えておう!
ひゃっほー!
(とまで思っているかどうかは別として)
と、あくまで自分の利益のみ意識しているのだと思います。
自分が権威のある人にどう見えるか、とか、自分とその人の関係とか、
他の聴衆から見て自分はどう見えているのかはあまり意識されていないのでは。
もちろん、欧米だって他の聴衆は色々思っているでしょうけど、
質問する人はそれを意識していないのでは。
私たち日本人って自意識過剰?(´∀`*)ポッ
それとも小さな社会だから、周りからそこそこ好かれておかないと後で大変だから?
理由は色々考えられますが、自意識があるかどうかが行動の違いに現れると思います。
この辺り考え始めると面白くてやめられません。
続きをまた書きたいと思います。